中学時代
話はまた小学校。思い出した。
中学年にもなると、両親の仲は悪化し、離婚話もチラホラ出た。
離婚したら大阪に帰る母についてくるか、父と家に残るか考えておきなさいね。と頻繁に言われる時期があったけど、言われる度に本気で悩んで本気で答えを探した。
よかったのか悪かったのか、その話は全て流れた。
かわりに母の生活は荒れ、お酒も進んで情緒不安定に。
ある日は包丁を向けられた。
ある日は首に紐をかけられた。
ある日は車に乗せられ山道をさ迷った。
ある日は母が自分自身に包丁を向け
ある日は欄間にかけられた紐を首に巻き付けていた。
涙と鼻水にまみれた顔に、口元だけ笑みを浮かばせ毎回言われた言葉は
一緒に死のう。
あんたさえ生まれてこなければ。
この言葉は、小学生のときに増えた言葉であって、初めて言われたわけではない。
あんたなんか生まなきゃよかった。
は、保育園のころからたまに聞かされていた。
だから、一緒に死のう、に恐怖を覚えても
生まなきゃよかった、いなければ、は、言われなれた言葉。
ただの音。
どんなことがあっても、どんなことを言われても、翌日には何事もなかったかのように登校し、学び、遊んだ。
勉強も頑張った。
友達ともたくさん遊んだ。
必要な人間でいられるように。
中学1年生。
部活はブラスバンドからの流れで吹奏楽部に入りたかった。
姉は経済的、そして私の面倒を見るためにテニス部を諦めてもらったけど、今ならラケットもシューズもユニフォームも買ってあげれるから、な~たはテニス部に入ってね。と言われ続け、結局テニス部に入った。
姉とは対照的で体を動かすのは苦手だった。
まだ体罰なんて言葉はあってないような時代。
年間の休みと言えば盆暮れ正月、テスト期間のみ。
学校が休みの日は一日中練習か試合。
一年生は先輩より一時間早く集合して準備をしなくてはいけない。6時半に出発するなら5時半には登校してボールの確認やドリンクの用意をした。
夏休みも自由に水分をとることも許されない。
炎天下の中、階段ダッシュやマラソン、先生の気分次第で休憩なく打ち込みをしたり、ラケットで頭を叩かれたり。
辞めたかったけど、途中で退部なんて、プライドが許さず辞めれなかった。
今となってはいい思い出だけど、本当に辛かったな~。
部活と平行して塾にも通い出した。
週2回、19時半から21時まで。
夏場は部活は18時45分まであったから、急いで帰って軽く食べて車で15分ほどの塾へ行く。帰りは方向が同じ友達の家と、うちの親が交互に家に送り届けることになっていた。
最初の何回かは問題なかったけど、だんだんうちの親が忘れることが増えてきた。
母のお酒が増えたからだ。
いつもは22時回らないと帰ってこない父が、塾の日は21時過ぎには迎えにきてくれるようになった。
なんとか解決。
夜、友達も連れて帰らなきゃいけないのに迎えが来ないかもと言う焦り。
忘れられません。
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